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ご挨拶

政治家として

ようこそお越しくださいました。吹田市議会議員の後藤 恭平です。このサイトを通じて私がどんな活動をし、これから何をしようとしているのかを皆様に知ってい頂きたく開設しました。

当初、吹田市議会議員に立候補した頃は30歳・「3児のパパ」、今では「4児のパパ」となりました。こうして私の生活環境が変わっていくと同時に、日々の議員活動の中で政治家としての考え方も少しずつ変わってきました。変わってきたと言っても、ふんわりとしていた部分が確信に変わってきたと言った方がいいのかもしれません。

とりわけ政治とは何なのか、政治家は何者であるのか、何者であるべきなのかを考え続けてきました。この答えは、今すぐ見つかるわけでもなく、そもそも答えがあるのかすらわかりませんが、深く考え学び、自身の血肉とすることで未来に何か役に立つのだと確信しています。考えれば考えるほど、選択肢が増えて、迷いが生じることになるのですが、ただ一つ言えることは、政治家の選び方や政治の仕組みを未来に引き継ぐべきだとは思えないということ。当然ですが、本当に国を想い、未来を憂う気持ちの宿っている人が政治家でなくてはいけません。しかし、そうではない現状があります。

考え方の根本に未来がなくては政治などできません。しかし、今を生きる私たちには、あまり理解されない考え方ではあります。でも、揺るぎのない事実として、遠い未来に私たちは存在せず、子どもたちや孫たち、もっと下の世代が私たちの作った社会で生きていくのです。未来に何を残せるのか或いは残してはいけないのか。未来を見据えた根と一本筋の通った幹を用意してあげなくてはいけません。4人目の子が生まれ、更に考えが固まってきました。
このままではいけないのです!ぜったいに!!

投票をすることとは

世界中の歴史では、実権を掌握するため暴力や戦争によって奪い合っていた政治権力を、現代の日本では先人の弛まぬ努力の結果、民主主義による市民の投票で市長や市議会議員、国会議員等を選べるようになりました。しかし現実は、「投票に行っている人」の代表であって、とても市民の代表と呼べる投票率ではありません。そして、本当に民主主義ってベストな手法なのか?と思う程、組織票による団体代理人らしき人が議員となります。

間違ってはいけないのは、選挙権という権利を壮絶な歴史の中から先人が勝ち取ったということです。あくまで権利だから、その放棄自体を私は否定しませんが、投票の意味を次世代に伝えているのか、自分自身が知っているのかどうかが重要です。今の50%前後の投票率が理解した上での放棄とは思えないし、そのことによって何が生じるのか想像してもらえていない悲しさがあります。だから、私の願いでしかないのかもしれませんが、訴え続けたいと思います。投票率の向上を。

政治家である私の役割は、次世代に恥じることのない政治を引き渡すことです。その政治を作っていくのは紛れもない今の大人です。今の政治、今の投票率、今の政治への無関心さ、どれをとっても恥ずべき失態です。私が努力するのは当然ですが、皆様も大人の責任として、投票に行く姿を子どもや孫に見せて、その意味を家庭において語ってあげてください。「1票」を、自分や子どもや孫のために使ってほしいと強く願います。

投票に行くこと、それは次の時代を作ることに他なりません。

後藤恭平の生い立ち

私のことをできる限り深く知って頂きたいので、生立ちから見ていただきたいと思います。

私は少し複雑な家庭環境で育ち、世間から見れば少し歪んだ考えも持ち合わせながら成長してきました。

私が産声をあげたのは昔の吹田済生会病院、住んでいたのは高槻市の隅にある玉川団地という所でした。私の出生当時、家庭は円満で仲良く過ごしていたと聞いています。
私が幼稚園を卒園する頃、私の知らない理由で両親は離婚しました。私の物心ついた頃から父は月に1日程度、時には帰ってこない月もありました。今思えばその頃から両親の仲は良くなかったのかもしれません・・。そんな月に1度程度しか帰ってこない父が私は大好きで、お父さんっ子だったのをよく覚えています。父親参観の前日には必ず父は帰ってきました。父が帰ってきてから夜中まで父と離れず遊んでいました。楽しくて楽しくて。
両親の会話を遮っては父と話しをし、母に怒られるまで起きていました。その頃は、まさか両親が離婚する等と思ってもみなかったのです。
私が卒園する頃突然お別れの日が訪れます。幼い私にとっては人生の中で一番と言っていいほど衝撃で、あまりに非現実なことでした。誰に聞いても答えはなく、みんな気まずい雰囲気で私に話すのです。いつかわかるから、って。

父と別れるさよならの日、私は近所のバス停まで一人で父を見送りに行きました。バスが来るまで父と何を話していたのかは全然記憶になく、とにかく笑顔でバスを待っていました。バスに、来るな、来るな、と心の中で念力を懸けていました。ただただ笑いながら、今日で最後だってわかっていたのです。時間が迫ってくると、少しずつ悲しみが込み上げてきました。そして、そのバスが私たち親子の前に到着してから、お別れをする時、最後に父は、「お母さんのこと頼むで」と悲しい顔をしながら私に告げ、頭を撫でてからバスに乗り込みました。
バスの窓超しに見える父の顔は、申し訳ない顔なのです。「そんな顔しないでよ」と心に思いながら、バスが見えなくなるまで私は父に手を振り続けました。
バスが見えなくなってから、2度と会えない、2度と顔を見ることができないと実感し、深い悲しみが湧きおこり、一人しゃがんでしばらく泣いていました。どれほどそこに居たのか、覚えていません。幼い私には一度も感じたことのない感情です。

しかし、これから一人で私たち兄弟を育てないといけない母の事を考えると、子供ながらに離婚の意味を理解しなくてはと思い、必死で父のことを忘れようとしました。2度と会えないかもしれない父のことを忘れようと決意したのです。いつも頭の中にいた父を消そうと、、、母の方が悲しいってことはわかっていたから。
それから間もなく祖父母の家に母と兄と一緒に引っ越しました。

祖父母の家で生活していた小学生時代、母は朝から夜中まで私と2歳年上の兄のために働いてくれました、私は夜中まで母が帰ってくるのを一人で起きて待っていたのを覚えています。小学生で父親がいない中、母親が自分のために働いてくれていることを分かっていても、母親になかなか会えない環境は厳しく辛いものです。
全然寝れないのに、寝ている最中にたまたま起きたようなふりをして、ごまかしながら夜中に帰ってくる母に話しかけていたのです。
小学生の頃は、兄も私も大人しい子どもではありませんでした。自分自身大人しい子ではないと理解していたのです。でも、勉強はしていました、何より母を心配させてはいけないと思っていたので、こっそり勉強していました。

私が中学校に入る頃に母が再婚をすることになり、兄は祖父母の家のまま、私は母と新しい父と母のお腹にいる子供(弟)と一緒に吹田市に引っ越し、吹田市立片山中学校に転校しました。
お金持ちの父ができたと思っていたのに、新しい父は再婚してすぐに会社を倒産させました。私は貧しさには慣れていましたが、弟が貧しい環境で育つことや母がまた働くことがどうしても許せませんでした。同時に自分の無力さを覚え、絶対金持ちになるって心に決めたのです。
高校受験の時には必ず公立高校に入らなければならないプレッシャーの中で摂津高校を受験し、無事入学する事が出来ました。我が家に私を私立高校に行かせる余裕はなかったのです。
そして、入学後母は再び離婚しました。

高校時代のスタートは母と兄と私と弟の生活でした。私は弟が大好きで、よく保育園に送り迎えをし、運動会や参観、発表会等に参加しました。今でも弟の成長は楽しいものです。
高校時代はあまり素行もいい方ではなく、夕方にアルバイトをしてそのまま夜中まで遊び回って、朝方に寝て昼前に学校に行く。なんてことも多々ありました。ただ、勉強はしていましたので、テストの成績は学年でも10位以内にはいつも入っていたように思います。
遊び過ぎていたせいか、高校3年になるかならないかの頃、色々と悩みました。このままでは今の家族どころか私が大人になって築く家族など生活できるわけがない、人のためになんて言っていられない、そしてそこには学校の成績なんて全然関係ない。でも、大学に行かないと偉くもなれない・・。そう思い悩んでいたのを最近のように思い出します。母が安心するために勉強していたのも無駄にすら思いました。将来の役に立たないって思ったのです。
私の大人と接する環境はバイト先の先輩や母親ぐらいのものでしたので、大人の社会がどんなものなのか、全然分からなかったのです。ただ、社長になって金持ちになる、ってことだけを決めていたのです。そして、自分の社会での立ち位置を考えてみると、上から順番に数えると、非常に下の方にいるなぁって思っていたのです。学力も年齢も能力も環境も、何もかも成功する糸口が見当たらなかったのです。

そんな色々と悩んでいた時、そうだ、父を探しに行こうって思ったのです。しかし、父がどこにいるのかわからなかったので、なんとなく、祖母の家に行くことにしようって決めたのです。ただ、私は幼稚園の頃の記憶しかなく、祖母の家の近くに消防署と駄菓子屋さんがあることしか覚えてなかったのです。ふと、兄なら覚えているかもと思い、兄に相談してみました。2つも年が違うとこうも記憶が違うのかと思うほど、兄ははっきりと祖母の家を覚えていたのです。そして、兄と二人で祖母の家に行き、祖母と再会しました。不幸にも祖父は他界されていたのですが、祖母の私たち兄弟と会った時の反応は、少し前に会ったかのような、ほんと最近会ったような、何の驚きもない反応だったのです。さすがにその反応には驚かされましたが、なんとなく居心地がよかったのを覚えています。「あらっ、恭平やないの」といった具合です。
そして、父を後日呼んでもらうことになり、その日は帰りました。涙のお別れから12年越しの再会です。私はただ会うことに緊張していて、何を話せばいいのか、そんなことを考えていたのですが、会った時の感想はそんなものではありませんでした。高校生だった私は大人と変わらない体をしていたので、私の想像していた父より小さかった。大きな手をしていた父が私より小さかったのです。何か、自分の人生にぽっかりと穴が開いたような、空白の時間が意図的に作られてしまったような、空しさと悲しさだけが残りました。
その空白の時間を埋めるかのように、父はどんな生活をしていたのか過去に遡って話してくれました。色んな話しをしてくれたのですが、ここでは記載しません。ただ、仕事は土木の設計や測量をしていたということを聞いたので、私のベクトルはそこに向くようになったのです。父との再会後、少し後悔しました。母への罪悪感が後悔を作り出していたのです。その時もうあまり会わないって決めたのです。やっぱり育ててくれたのは母ですから。

大学は大阪工業大学に行くことに決めました。運よく指定校推薦の枠に希望していた土木工学科があったので、受験の煩わしさを味わうことなく進学することができました。ただ、大学に行く費用が我が家にはなかったので、奨学金を借りて、2年目からは学費の安い夜間に転部することを暗に決めていたのです。今も借りた奨学金は返済しています。
これまで大学に入るまでのことを書きました。幼少時代から環境の変化に翻弄されながらも、勉強やスポーツによく励みました。それは、母の愛情に育まれ、貧しいながらも生き抜くことの大切さと、生き抜くことの難しさを教わりながら育ったからです。幼いころから母を心配させたくない、母が自慢できる子でいたかったという気持ちでいっぱいだったから頑張れたのだと思っています。

大学時代から現在までは子供の頃に培われた強さが私に成長する機会を与えてくれました。
大阪工業大学に進学し、1年目は学業とは別に簿記の勉強をしました。お金持ちになるため会社を作ると心に決めて行った大学ですから、社長になるためには何が必要なのか必死で考えたのです。大学での勉強と簿記の勉強、そしてアルバイトを必死でこなし、日商簿記の2級・建設業経理事務士の2級を冬までに取得することができました。この簿記の知識は議員をしている今も活かされています。丁度、簿記の資格を取得した大学1年目の後期が終了する頃、すぐに土木関係の測量会社で働き始めました。そのまま2年目からは夜間に転部をして、昼間は測量会社で働いたのです。本当は、お金を貯めるだけなら違う仕事でもよかったのかもしれません。しかし、たとえ給料が安くても、自分の極めたい道でお金を貯めて独立するという地道に頑張る道こそが成功への近道だと思っていました。絶対この方法が正しいんだって思いこんでいました。その気持ちは今も変わりません。

ただ、この学生時代は本当に過酷でした。週のうち6日間、朝6時半に出社のため5時半頃に起き、昼間は現場で測量作業をし、夕方には現場からそのまま大学に行き、10時頃に家に帰り、測量士補という資格取得のため1・2時間勉強をし、週末は気合いで遊ぶという日々でした。その甲斐あって、大学3回生の頃に測量士補を取得することができました。この生活を1年半程続けた3回生の頃、測量の分野には土地家屋調査士という仕事もあることを知りました。少しマニアックな話しですが、測量には色々と種類があって、測量士は国土交通省管轄で、工事のための測量や公共事業のための測量等があって、どの測量に対しても実務ができる人って意外に少ないのです。しかも、同じ測量でも法務省管轄の土地家屋調査士という仕事は、不動産の登記に関する測量なので、また一つ実務は異なり、測量分野でこれら全部をできる人は非常に少ないのです。なので、全てを極めたいと思っていた私は土地家屋調査士事務所に転職しました。
そして、大学を卒業する頃、勉強も空しく土地家屋調査士の資格を取得できていない状態で、さらに世間は就職氷河期の大不況時代で、希望していた土木業界等は大変な大不況に見舞われていました。土地家屋調査士事務所の取引先には不動産業界が多かったので、関連性のある不動産会社に何事も経験だと思い就職することにしました。

大学を卒業する少し前に妻と出会い、すぐに子宝に恵まれ結婚しました。就職した途端に子どもができたのです。
子供が産まれてからでは身動きがとれないと思っておりましたので、勤めていた不動産会社を半年で退社し、大学時代に貯めた200万円を持って不動産会社を起業しました。当初はお客さんもいなければ仕事もない状態でした。家にお金を入れるため、開業当時は夜中にホテルでバイトをしていました。

正直、仕事もろくにできない若造で、不動産の仕事はほとんど未経験に近い状態でした。 ただ、社会人経験は数年あったので、どうすれば仕事ができるか、という理屈だけは理解していました。
当時は、お金もなければ仕事もない、自分の技量にも不安を感じでいたのですから、諦めてもう一度就職しようかなと思ったことは何度もあります。子供の顔を見るたびに不安になって眠れなかったり、母や弟と話をすることすら辛かった頃もあります。ですが、子供に励まされ、日々真面目に営業をし続けていたら、仕事を少しずつもらえることようになりました。ただ真面目にすること、それだけで仕事がもらえたと言っても過言ではありません。仕事をもらえるようになるまで、ずっと夜中のバイトを頼りに生活していましたから、この頃は家庭を持つ親として、尋常ではない精神状態で過ごしていました。
仕事が少し軌道に乗り出した頃、仕事の合間に土地家屋調査士の試験勉強をし、なんとか資格を取得しました。大学卒業時に取得した測量士の資格もあったので、測量会社と土地家屋調査士事務所を興すことができました。実務は学生時代に働いていたので、すぐに業務を始めることができました。当時27歳、2人目の子どもが産まれた年です。事務所の経理や事務仕事も現場仕事も営業活動も全て自分流で作り上げていきました。

それからすぐに、青年会議所という団体に出会いました。
兄が寝屋川で所属していたこともあり、兄の誘いで吹田青年会議所に入会することになりました。理由は、ずっとボランティアをしたかったからです。いつか自分の生活に少し余裕ができたら、自分のような、いやもっと自分より辛い環境で生活している子たちに支援したい。挫けたり、悩んだり、押し潰されそうになったりしている子たちに頑張ってほしいと思っていたのです。しかし、青年会議所での活動や会の運動は私が思っていたものと少し違ったのですが、奉仕・友情・修練という3信条の下、果敢にまちづくり運動を展開する先輩方を見て、自分もやろうと思ったのです。

その青年会議所で出会ったのが、現在私と同じ政治団体に所属する石川勝前市議会議員です。石川先輩に議員にならないか?と言われた時、即座にやりますと答えました。3人目の子が産まれた当時30歳です。昔から政治に興味や関心はありましたが、誘われた当時自分が立候補する等とは思ってもみませんでした。
ただ、政治には影響力があります。自分が思い描く膨れ上がった思いをぶちまけたく思ったのです。自論ですが、市議会議員になるというのは、手段です。議員になるのが目的ではありません。目的があってこそ、あらゆる手段の中から選択できる。その1つの手段が議員です。だから、議員であろうとなかろうと、ずっと同じ方向を向いているのです。少し違うのは、ベクトルの力が違うということです。
そして、平成22年の統一地方選で多くの方々に支えられて当選することができました。
喜びも束の間、同じ年の夏に長女の癌が発覚しました。詳細はブログに書きましたのでここでは控えますが、前述した通り、辛い日々を長女とは共に過ごしてきました。私を奮い立ちあがらせたのは一人で一生懸命私と兄、弟を育ててくれた母です。それから大人になって、私を成長させてくれたのは子ども達です。子どもの癌を知った時、全身の力が抜けました。自分の命を奪われることがちっぽけに思えるほどです。娘もどうにか今は無事に過ごしていますが、私が議員になってから、また子どもに大きく成長させていただきました。
そして、平成25年7月に4人目の男の子が産まれました。

私は、政治家というのは、自分自身の人生観が基礎にあるのが大前提だと思っています。経験こそが全てとは言いませんが、歴史を学び今を知り、自らが身を持って感じたことの積み重ねこそ、政治に反映させていくべきものだと感じています。私は自分の今までの人生を基礎に、未来のために政治活動に活かしていきたいと、そのように思います。

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